のんのんひろばってなに?

子育てってとっても大変。 悩むこともあるし、しんどくなることもある。 そんなお母さんやお父さんたちが、ちょっとほっこり、一息つける場所をと思い、 「のんのんひろば」を開催することにしました。 仏さまがおられる本堂で、気分転換してみませんか。 ま...

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2020年9月21日月曜日

9月のお話(預かりもの)

 先月、娘が産まれて親になりました。

 若坊守が妊娠中、グニャグニャと想像していた以上にダイナミックに動くお腹を見ていると、とっても不思議な感覚になりました。

 この子は今確かに生きている。でも、まだ産まれていない。それっていったい、どういうことなんだろう?今、この子が生きていることは間違いない。でも、産まれてはいない。この世には生を受けている。でも、産まれてはいない。・・・うーん、これはいったいどういう状況なんや???と、頭にはたくさんの「?」マーク。

 この子は今人間だよな。でも、お腹の中に生を受けた最初の頃って単細胞生物のようだったり、魚類っぽかったりするんだよな。じゃあ、この子はいつ人間になったんだろう。生を受けるっていったいなんなんだろう。生きるとか、産まれるとか、いったいどういうことなんだろう。
 間違いなく今生きていて、動いているお腹の中のこどもの様子を見ながら、間違いなく今生きている自分のいのちに思いを馳せながら、それがいったいどういうことなのかわからないという、なんだかよくわからない感覚になりました。

 我が子を手に抱いていると、とっても可愛く、愛おしく、幸せな時間が流れます。けれど、自分の子という感覚がいまいちありません。母親からは、それはあんたが子育てをまだしてないからだ。関わる時間が少ないからだ、と言われます。

 まぁ、そうなんだろうなあ、とぼんやり思いながらも、「でも待てよ、本当は、自分のところに生まれてきてくれたけれど、自分の子ではないのかもしれないぞ。我が子という方が本当ではなくて、僕のこの感覚の方が本当なのかもしれないぞ。」とも思いました。


 子は授かりものと言いますが、子は「預かりもの」とも言うそうです。仏さまからの、預かりもの。神様や、世間からの預かりもの、という言い方もできるかもしれません。今日のんのんひろばに来てくれたお母さんからは、「7歳までは神様の子として育てなさい」と何かで読んだことがある、と教えてもらいました。
 自分の子どもと思っているけれど、いのちって実はそんな小さな枠に当てはめられない、大きな大きなものであるように思います。それはわが子だけでなく、自分のいのちについても。

 「自分のいのち」と、「自分」という枠にはめ込んでいるけれど、実はそんな枠にはおさまりきらない、大きな大きなうねりと営みの中の一つの流れのような、切り取ることのできないものがいのちなのかなぁ。なんて、そんなことを思います。だからこそ、生きるとか死ぬとか、生まれるっていうことって、実はあやふやで、定義しようとしてもできないのかもしれません。

 この子は仏さまからの預かりもの。そんな気持ちで、子育てしていきたいなって思いました。けれどもきっと、日が経つにつれ、「自分の子」という枠にはめ込んで、私物化してしまうようになるんだろうなって気がします。他人の子だったらゆったりのんびり見ていられることが、わが子になればそれがとっても難しいんだろうなって、思います。「他の子はともかく、この子にだけはこうなってほしい。」とかなんとか、、、


 なので僕は、皆さんにたくさん育ててもらおうって思います。その分僕は、皆さんのお子さんに一人の大人として、子育てしたいなって思います。もちろん、他人に出来ることなんてたかが知れているし、親にしかできないこと、言えないこともたくさんあります。けれど、お互いさんに出来ることはできるだけ、お互いさんにやりあえたらなと思うのです。少なくとも、こののんのんひろばはそういう場所にしたいなって思っています。

 今日来てくれていたお母さんが帰り際に、「私も最初はそういう気持ちやったけど、今日の話聞いて昔のこと思い出したわ。」とおっしゃっていました。こうやってこどもの世代が違う親同士が交流できる場って、とっても大事な気がします。でも実は、世間ではそういうコミュニティってあんまりないかもしれません。のんのんひろばがそういう場になればいいな、とも思ったことでした。
 お子さんが小さい方も、大きい方も、子育てに頑張る人、疲れた人は誰でも、ふっと一息つきにのんのんひろばに遊びに来てください。

 


 いろいろと話がごちゃごちゃとしちゃいましたが、いのちってなんなんだろう。生まれるって、生きるってなんなんだろうってことを思ったというお話でした。
 それを教えてくれているのが仏教なんだと思うのです。これからも、つたないながらも仏さまの前でほっこりのんびりできる空間を持ちたいなって思います。




(若院)

2019年11月14日木曜日

11月のお話(諸行無常)

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

 平家物語の冒頭の言葉で有名な「諸行無常」というこの言葉。これは仏教の言葉です。
今日は、そんな諸行無常ということについて。


 諸とは「すべての」という意味、行とはここでは「もの」を指し、諸行とは「すべてのもの」を意味します。常には「ひとときも途切れることなく、ずーーっと」という意味があり、無は否定語です。つまり、諸行無常とは「すべてのものはずっと存在することはできない。すべてのものは変化し続けている。」という意味です。


 平家物語の物悲しさも相まって、諸行無常と聞けばなんだか寂しい響きがします。人は必ずいのち終えてゆかねばならないし、どんなに大切なものであっても、いつかは朽ちたり壊れてその形を崩してしまいます。だからこそ、今を大切に生きないといけない、ものを大切にしなければいけない、そんな教えが、きっとこの諸行無常という言葉には込められています。
 どれだけ可愛くて、手元に置いておきたくても、こどもはいずれ幼児園や学校に行く時が来ます。だから、一緒にいられる今を大切にしなさいよ、と私たちが見落としてしまいがちな今この瞬間の尊さを、仏様はもっともっとよく知りなさいとおっしゃっているのかもしれません。


 そしてこの諸行無常という言葉はまた、変化してゆくこれからの未来を教えてくれている言葉でもあります。
 すべてのものは変化し続けている。移ろい変わり続けている。だから、嫌なことやしんどい状況も、ずっとずっと続くわけではありません。好きになれない今の自分や我が子の嫌な部分が、ずっとずっと続くわけでもありません。すべては無常。だから、私たちは成長することができる。それも、諸行無常です。

 まわりの子たちはつたい歩きを始めているのに、なんでうちの子はハイハイしかしないんだろう、と、不安になることもあるかもしれません。なんでこんなにイライラ怒ってしまうんだろうと、自分を情けなく思うこともあるかもしれません。でも、それもずっと続くわけではありません。こどもがずっとずっとハイハイしているということもなければ、ずっとイライラし続けていられるわけでもありません。すべてのものが、無常です。



 そうは言っても、人間なかなかすぐに変われるものでもありません。すぐに状況がよくなるわけでもありません。けれど一度気晴らしに、辛い時やしんどい時、「諸行無常、諸行無常、、、」と唱えてみてはどうでしょう。思い通りいかない現実の中に、キラッと一粒愛おしさが光って見えてくるかもしれません。

 諸行無常、かけがえのない今と、無限の可能性が広がる未来を知らせる仏さまの言葉。このブログも、ずっと続けられるわけではないのかな。書けない月も、あるのかも。でも、だからこそ、こうして書いていられるうちだけでも精一杯、書いていたいなと思います。

今月は、諸行無常についてのお話でした。



(若院)

2019年10月15日火曜日

10月のお話(ひとりぼっち)


 仏説無量寿経というお経の中に、「世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死に、独り去り独り来る。」という言葉があります。愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、いろんな感情うずまく世間の中を生きている私たちだけれど、生まれてくるときも独り、死んでいくときも独り、去るときも来るときも、人はいつだって独りだ。というのが、この言葉の意味です。
 僕が初めてこの言葉を知ったとき、仏教はなんて救いのないことを言うんだろう。なんて寂しい宗教なんだろう。と思いました。

 最近、重松清さんの「青い鳥」という小説を読みました。これは短編小説集でいくつかの物語があるんですが、そのどの物語にも「村内先生」という先生が出てきます。この先生は吃音、いわゆるどもる先生で、カ行とタ行、そして濁音がすんなり言えません。「ぼぼぼ、ぼ、ぼぼぼくの名前は村内でで、です。どどどど、どうぞよろしく。」といったぐあい。国語の教師なのにどもるものだから、生徒からは笑われ、馬鹿にされています。見た目もパッとしないおじさんで、髪の毛はボサボサで少し薄く、いつもヨレっとした背広を着ています。産休や病気で休んでいる先生の代わりの臨時の先生なのですが、村内先生は職員室でも浮いているような、いつもひとりぼっちでいるような先生でした。

 吃音の村内先生が話すときはいつも真剣で、大切なことしか言いません。村内先生はそれぞれの物語の中で、周りと馴染めない生徒の孤独や悲しみに気が付き、そっと寄り添います。生徒にお説教したり、諭したりすることはせず、「さみしいよなあ」と、ただそっとそばに立ちます。そして休職中の先生が帰ってくると、また次の街へ行ってしまいます。

 この村内先生が生徒のそばに立つ時にはぴったりそばにというよりかは、少し距離があり、けれど手と声の届く距離でした。その距離感が僕にはとっても優しく感じられました。村内先生自身も孤独と悲しみを抱えているような雰囲気が感じられ、どこか寂しく、でもだからこそ、孤独で寂しい生徒たちが孤独から癒されていくのだなぁと、なんだか納得もできました。孤独を感じ、惨めな思いに涙しているとき、元気で順風満帆に見える人に慰められると、余計に惨めで寂しくなることって、ある気がします。

 村内先生が、あるお話の中でこんなことを言います。



ひとりぼっちが二人いれば、それはもう、ひとりぼっちじゃないんじゃないか、って先生は思うんだよなあ。

先生は、ひとりぼっちの。子の。そばにいる、もう一人の、ひとりぼっちになりたいんだ。だから、先生は、先生をやってるんだ。



 人は孤独だ、という仏教の言葉が、全然違った意味を帯びて響きます。
「私もひとりだった。孤独だった。寂しいよなあ。悲しいよなあ。でも、あなただけじゃないよ。私も、ひとりだったんだ。みんな、ひとりなんだ。ひとりぼっちなのは、あなただけじゃないんだよ。」

 仏様はなんて悲しい事を言うんだと昔は思ったその同じ言葉は、やっぱり私たちの孤独を、寂しさを癒し、和らげるためのものだったのだと、今では思うようになりました。とてもあたたかな言葉だと、味わっています。

 人に分かってもらえないことがあると、近しい人であればあるほど、なんでわかってくれないの!という思いは強まります。人の苦しみを分かってあげられないときも、人は孤独だということを思い知らされます。そんなとき、ひとりだけれど、ひとりじゃない。孤独だけれど、それは私だけじゃない。仏様ほどの人だって、ひとりだったんだ。そんな思いが、そっと心を和らげてくれる気がしています。
 「独生独死独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)」孤独を感じたとき、思い出してみてください。








(若院)

2019年9月25日水曜日

9月のお話(ひび割れ壷)


 仏教には、人生を軽やかに、そして力強く生きていく智慧がたくさん詰まっています。のんのんひろばでは、毎回そんな仏教のお話を少しずつですがしていきたいなと思っています。仏教のお話を聞いて、世間や常識とはちょっと違う視点で物事が見れるようになると、受け止め方もまた違ってくるかもしれません。

 記念すべきのんのんひろば第一回目の今日は、「ひび割れ壺」というお話。

 インドの昔話に、「ひび割れ壺」というお話があります。昔のインドはカースト制度によって仕事が細かく決められていました。靴を磨く人は靴を磨く以外の仕事はできません。ヒゲを剃る人はヒゲを剃るだけ。
 あるお屋敷に、毎日生活で使う水を汲むことが仕事の水汲み人がおりました。長い天秤棒の両端に大きな水瓶をぶら下げて、毎日お屋敷から遠く離れた川まで水を汲みに行きます。
 片方の壺は完璧な壷。毎日たっぷりの水を運ぶことができましたが、もう一方の壷には大きなヒビが入っていました。どんなに水汲み人が一生懸命水を入れて歩いても、お屋敷に着く頃にはひび割れ壷の水はほとんどこぼれてしまっているのでした。ひび割れ壷はそんな自分が惨めで、情けなく、また水汲み人に大変申し訳ないと思っていました。
 ある日、水汲み人が木陰で休憩している時に、ひび割れ壷は水汲み人に話しかけました。「水汲み人さん、ごめんなさい。もう一方の完璧な壷はたくさんの水を運ぶことができるのに、私には大きなヒビが入っているせいで、お屋敷に着く頃にはほとんど水が残っていません。あなたがどれだけたくさん水を入れてくれても、一生懸命歩いてくれても、私にはたくさんの水を運ぶことができません。私はそれが情けなくて、恥ずかしくて、そしてあなたに申し訳がありません。」それを聞いた水汲み人は、こんなふうに返しました。「あなたは、川からお屋敷の間に綺麗に花が咲いているのに気がついていますか。気がついていないのなら、これからお屋敷までの道でごらんなさいな。」
 水汲み人が歩き始めた時、ひび割れ壷が下を見てみると、確かに綺麗に花が咲いていました。花はまるで一本道のように、川からお屋敷まで線のように咲いています。それも、道の片方側にだけ。それを見てひび割れ壷は少し気持ちがほっこりしましたが、お屋敷に着くとやっぱり水はほとんど残っていません。また、悲しい気持ちになりました。すると、今度は水汲み人がこんなふうに声をかけました。
 「ひび割れ壺よ、私はあなたに大きなヒビが入っていることに初めから気がついていました。だから私は、川からお屋敷の間に花の種を蒔きました。この種を芽吹かせ、花開かせたのは、ひび割れ壺よ、あなたです。あなたから滴る水によってこの種は芽吹き、花開いたのです。私は毎日この花を摘んでご主人様の食卓にお届けしています。あなたがあなたのままでなかったならば、ご主人様の食卓を美しい花で彩ることはできなかったのですよ。」その言葉を聞いて、ひび割れ壷はピンっと背筋を伸ばしました。

 「ひび割れ壷」というお話です。私たちは誰しも、数の多い少ない、大きさは違えど、みんなヒビを抱えています。人と比べて自分を惨めに思ったり、また大きなヒビを抱える人を見て馬鹿にしたりもします。けれど、仏様はそんなヒビを欠点とは見ておられません。あるべきところであるべき働き方をすれば、そのヒビは素晴らしい長所になる。そういう智慧を悟った方が仏様です。
 「この欠点は長所なんだ」と自分がいくら胸を張ってみても、世間では通用しないかもしれません。仏法を聞いても、ヒビがすぐさまなくなるわけではありません。けれど、そのヒビを仏様は欠点とは見ておられない。そのヒビはとても素晴らしい個性だよ、長所になるよ、と見ておられる。そんなふうに物事を捉えてみると、ちょっと見え方も違ってくるんじゃないかなぁ、と思います。

今日のお話は、「ひび割れ壷」というお話でした。



(若院)