先月、娘が産まれて親になりました。
若坊守が妊娠中、グニャグニャと想像していた以上にダイナミックに動くお腹を見ていると、とっても不思議な感覚になりました。
この子は今確かに生きている。でも、まだ産まれていない。それっていったい、どういうことなんだろう?今、この子が生きていることは間違いない。でも、産まれてはいない。この世には生を受けている。でも、産まれてはいない。・・・うーん、これはいったいどういう状況なんや???と、頭にはたくさんの「?」マーク。
この子は今人間だよな。でも、お腹の中に生を受けた最初の頃って単細胞生物のようだったり、魚類っぽかったりするんだよな。じゃあ、この子はいつ人間になったんだろう。生を受けるっていったいなんなんだろう。生きるとか、産まれるとか、いったいどういうことなんだろう。
間違いなく今生きていて、動いているお腹の中のこどもの様子を見ながら、間違いなく今生きている自分のいのちに思いを馳せながら、それがいったいどういうことなのかわからないという、なんだかよくわからない感覚になりました。
我が子を手に抱いていると、とっても可愛く、愛おしく、幸せな時間が流れます。けれど、自分の子という感覚がいまいちありません。母親からは、それはあんたが子育てをまだしてないからだ。関わる時間が少ないからだ、と言われます。
まぁ、そうなんだろうなあ、とぼんやり思いながらも、「でも待てよ、本当は、自分のところに生まれてきてくれたけれど、自分の子ではないのかもしれないぞ。我が子という方が本当ではなくて、僕のこの感覚の方が本当なのかもしれないぞ。」とも思いました。
子は授かりものと言いますが、子は「預かりもの」とも言うそうです。仏さまからの、預かりもの。神様や、世間からの預かりもの、という言い方もできるかもしれません。今日のんのんひろばに来てくれたお母さんからは、「7歳までは神様の子として育てなさい」と何かで読んだことがある、と教えてもらいました。
自分の子どもと思っているけれど、いのちって実はそんな小さな枠に当てはめられない、大きな大きなものであるように思います。それはわが子だけでなく、自分のいのちについても。
「自分のいのち」と、「自分」という枠にはめ込んでいるけれど、実はそんな枠にはおさまりきらない、大きな大きなうねりと営みの中の一つの流れのような、切り取ることのできないものがいのちなのかなぁ。なんて、そんなことを思います。だからこそ、生きるとか死ぬとか、生まれるっていうことって、実はあやふやで、定義しようとしてもできないのかもしれません。
この子は仏さまからの預かりもの。そんな気持ちで、子育てしていきたいなって思いました。けれどもきっと、日が経つにつれ、「自分の子」という枠にはめ込んで、私物化してしまうようになるんだろうなって気がします。他人の子だったらゆったりのんびり見ていられることが、わが子になればそれがとっても難しいんだろうなって、思います。「他の子はともかく、この子にだけはこうなってほしい。」とかなんとか、、、
なので僕は、皆さんにたくさん育ててもらおうって思います。その分僕は、皆さんのお子さんに一人の大人として、子育てしたいなって思います。もちろん、他人に出来ることなんてたかが知れているし、親にしかできないこと、言えないこともたくさんあります。けれど、お互いさんに出来ることはできるだけ、お互いさんにやりあえたらなと思うのです。少なくとも、こののんのんひろばはそういう場所にしたいなって思っています。
今日来てくれていたお母さんが帰り際に、「私も最初はそういう気持ちやったけど、今日の話聞いて昔のこと思い出したわ。」とおっしゃっていました。こうやってこどもの世代が違う親同士が交流できる場って、とっても大事な気がします。でも実は、世間ではそういうコミュニティってあんまりないかもしれません。のんのんひろばがそういう場になればいいな、とも思ったことでした。
お子さんが小さい方も、大きい方も、子育てに頑張る人、疲れた人は誰でも、ふっと一息つきにのんのんひろばに遊びに来てください。
いろいろと話がごちゃごちゃとしちゃいましたが、いのちってなんなんだろう。生まれるって、生きるってなんなんだろうってことを思ったというお話でした。
それを教えてくれているのが仏教なんだと思うのです。これからも、つたないながらも仏さまの前でほっこりのんびりできる空間を持ちたいなって思います。
(若院)